メーカーで「モノづくり」一筋に努めてきました
現在海外現地法人で社長している現役サラリーマンです
入社以来、設計~商品企画・経営企画~海外工場経営(タイ・マレーシア)に従事し
メーカーでのものづくり一通り経験してきました
この経験を読者にお伝えし、少しでもお役に立ちたいと思ったのがブログ開始のきっかけです
書いてるうちに、自分自身の頭の中のことも整理できるし、読み直して自分自身が学べたり
結構いいこと多いです
ものづくり プロフィール
大学・大学院で機械工学を勉強
(ウソです、学生時代のほとんどを部活に費やしました。でも一応卒業はちゃんとしております)
卒業後、直接最終消費者の方々に使ってもらえる商品を作りたくBtoCメーカーに就職
商品設計を経験後、海外会社(製造会社)の責任者に
ここで設計だけでなく事業全体のマネジメントを経験
日本に帰って、日本の事業責任者、さらに別の商品を作っている海外現地会社に出向
おかげで幅広い経験を積むことができました
いい商品をお客様に供給するために、メーカーは何をしなければならないのか、
自分なりに考えてきたことを記事を通じて伝えします
若手設計者時代(90年代)
入社後、地方の事業所に配属
モノづくり現場が横にある工場で商品開発ができたことは、
設計者として成長する素晴らしい環境だと感謝しています
自分が書いた図面を持って製造現場に行き、
こわ~い現場のオジサンやお姉さんにボロカス怒られながら学んだ日々
当時、工場を通り抜けるのさえ怖い時代がありました
上司はほったらかしでしたので、設計の基本は、後工程(製造、調達、品質保証)の皆さんに教えてもらったようモンでした
今は、製造現場の多くが海外に行き、若い設計者が現場と接する機会が少なくなったことは、本当に残念です
モノづくりの危機すら感じます
さらに、会社によっては、図面ができた時点で製造に任せっきり、
または細かい部分は社外からの派遣社員に任せっきりみたいな会社もあるようです
自分が若手時代に学んだ環境を考えると、育成大丈夫か?って心配になます
中堅社員時代
30歳も過ぎて、仕事も大分わかってきたころ一番仕事がたのしかったですね
自分がリーダーとなって開発した商品が世に出て、お客様から喜びの声が届く
メーカーでの開発者冥利に尽きるっていうか、「次どんな商品開発したろー」って商品企画のメンバーと考えるのが楽しかった
品質やコスト、納期(QCD)追われることも度々で、苦しい時間もあるけど、商品が売れると充実感ありますよね
ただ、このころから、やっぱりこの「QCDに追われる開発環境が正しいやろか?」って疑問に思うようになったかな
QCDに追われると、開発者にも余裕がなくなり、新しい発想やチャレンジより、
「仕事をこなすようになっちゃうよな~」って
これでいいんやろか? 課題感じてた時代でした
課長時代
課長になって「良い商品を作るだけでなく、良い商品を生み出す環境つくり」これ結構考えましたね
話せば長いですが、簡単にいえば
・決めるべき人がさっさと決める
・変化点を徹底的に検証する
・達成するべき商品品質の目標値を明確にする
この3点かなと結論つけて、マネジメントしてます(今も変わらず)
初めての海外赴任
部長に昇格してまもなく、タイにある工場の責任者として赴任しました
タイには新商品を立ち上げるたびに出張していたので、
「現地のこともわかってるし、スムーズにとけこめるよな~」
って思って意気盛んに乗り込みましたが、課題山積み、おまけに大洪水に合うわでホント刺激的な日々でした
最初に取り組んだ課題は
・すぐ会社やめる技術者の育成
簡単に言えば育成ができていないので、やめちゃうんですけどね
次のメインテーマは
・生産するだけで、QCDに無頓着な工場の改革
(製造だけじゃないよ、品質、製造技術、調達 ぜ~~んぶ)
毎月の生産台数を守ればいいって、昭和の工場?? てな感じ
さらには洪水からの復興、その復興の設備投資の償却負担で赤字経営
でも、タイの人たちの素直な気持ちや、現地リーダーのリーダシップ、
日本からの支援に支えられ、少しは成果をだせたかな
日本帰国
5年の海外赴任を終え日本へ帰国
課長時代より権限も広がり、結構面白い時間でした
人材にも恵まれ、私の役目はその優秀なメンバーが機嫌よく仕事して能力を最大限に発揮させるようにするだけ
これがたった1年半でおわって、長年親しんだ事業を離れ、
上海で現地マネジメント会社の立ち上げへ再び海外赴任へ
上海赴任
私を育ててくれた事業を離れ、好きなモノづくりからも離れ、経営企画なる仕事へ鞍替え
慣れない仕事で苦戦苦闘
ここでの話は省略
再びタイへ
上海の仕事が合わないと判断されて1年半でクビになり、再度タイへ
前の事業とは異なる商品を複数製造・開発する会社へ
同じ会社、同じB2C事業でも商品が変わると、こうも体質が変わるのかと、驚きの連続
同じ言葉でも意味が違う、ニュアンスが違う、仕事の仕方も考え方も違う
また、日本からの出向者もいろんな部門から来てるので、考え方がバラバラ、
前の出向先は、出向者全員が同じ日本の事業拠点から来てるので、
話も通りやすかったけど、今回はまぁ大変
私の常識が常識でない事が多すぎて「まさか」の連続
前の赴任先との比ではなかったですね
日本人出向者、ローカル幹部との課題意識の共有、これができないと何も進みませんわ
でも、それぞれの常識が違うから、なかなか理解できない
たとえば、在庫管理にしても、改善の必要有りと説明しても「親元工場と同じやり方」と言って問題と認識しない
「親元が間違っている」といっても、出向が終わると親元に戻るため、
親元を否定するようなことはしたがらないし、
そもそも長年慣れ親しんだやり方を変えたくない
これって、そのメンバーが悪いって言うよりも、ホント人間の悲しい性ですわ。
「現状維持=衰退」って理解できない
こんな人間の性質を理解してマネジメントするのも重要
とは言いながら4年かけて少しずつ改善したものの、
最終的には赤字が続き自らの手で閉鎖してきました
無念でした
あと、海外出向での大きな課題「異文化コミュニケーション」
これもマネジメントする上で非常に大切な概念
言葉の壁以上に、こっちの方が意思疎通がうまくできない理由です
これもまた記事書きます
2度目のタイ赴任もおわり、マレーシアへ
無事タイの工場で4年半の勤務を終え、社命によりマレーシア異動
定年まであと4年半、ものづくりの仕事をさせてもらえるので、
このまま頑張ってみようかと
モノづくりの仕事ができるなら、勤務先はこだわらない
と言い続けましたが、そのとおりになったようです
異動・単身赴任はサラリーマンなった時点で覚悟してます
でも、遅くとも60歳定年時には、日本の自宅に帰ろうと思います
その時はサラリーマンではなく自分で仕事したいですね
そして、時間をコントロールしながら奥さん孝行に励むのが目標です
ちなみに妻一人 1男2女の父親 かれこれ12年 単身赴任中
妻には頭上がりません
今も、一時帰国時は全力で奥さん孝行に励んでおります
追記:2年後マレーシア内で別の会社へ異動になっています