2011年10月 私46歳の時、タイですごい洪水があり、
この時、担当していた工場も被害にあい、建物の中で約1.6m浸水しました
水が引くまでに、約2か月
その後、多くの人の努力で、工業団地内で最速の復旧を行うことができました
洪水~復旧までの経緯とその中で経験したこと、学んだことをブログに残しています
今回は日本で主力商品の生産を開始したときの話です
生産支援のためにタイの人たちを日本に出張させるか、判断を大失敗した話です。
日本での代替え生産
浸水してから1週間くらい経っても水が引かず、引いても工場の復旧には相当の時間がかかると判断した日本側は主力商品の生産を日本で生産することを決め、準備を始めました。
完全に儲け度外視です。「お客さんへの供給を止めてはダメ」を最優先にした結果です
金型を新規でつくり、設備も導入、サプライヤーさんにお願いしまっくって、全国から人を集め、2か月後には日本での開始しました
タイで、ちょうど代わりの工場をお借りして生産を始めたタイミングでした
日本が主力商品の生産をしてくれたおかげで、タイ側は、生産する商品を絞ることができ非常に助かりました
当初、「そんな短期間で準備できるんかいな」とかなり疑問に思っていたのですが、本当にやり切った日本力にはびっくりしました。
正直「スゲー、日本のものづくりの底力」って思いましたね
後で聞きましたけど、工場長はかなり精神的に追い込まれて、倒れる寸前だったとか・・・・
ひょっとしたら、私よりもストレス掛かっていたかもしれません
「お客様への商品供給の責任」と「自社の商品を守る強い執念」が
なせるワザだったと思います
タイ人作業者の日本出張要請
日本で生産をするにあたり、日本から
「タイの人たちを日本に出張させてほしい」
との依頼がありました
確かに、日本からのこの依頼は最もな話で、生産に必要な約100人の人員を確保するのは相当困難で、実際かなり苦労したようです
ホンでその時の私の判断は
「出張は行かせない」
理由は、ほとんどの従業員も自宅が被災しており、家族もいます
その被災した家と家族を残して日本に出張させるのは、人道的に許されないと考えたからです
でも、この判断は、大いなる間違いで、この洪水復旧の中での最大の判断ミスとだったと悔やんでいます
後で、聞いたのですが、タイの人たちは、日本への出張指示があったなら喜んで行ったとのことです
私は「え~~~」って感じでしたが、タイの人にとって、日本に行けることはとても憧れであり、自宅が浸水していようが、家族も十分受け入れられる、むしろ歓迎することでなのです。
確かに、毎年開かれるQCサークル大会(優勝者は日本での全世界大会に参加できま)は、参加者は日本に行きたいため、メチャメチャ頑張ります
こんな感じ。
チョイと頑張る方向が違うような気もしますが、ほんと一生懸命です
結局、このタイの人たちの気持ちを全く理解していなかった私は、現地責任者として失格というわけです
学び14:本当に現地の人を理解しているのか
日本人の常識で判断してはいけない
も一つ私のミスは、この判断をするときにローカル幹部の意見を聞かなかったことです
このころ、金型の引き上げ等で洪水の現場を走り回っていたローカル幹部に話を聞きにくい状況ではあったとはいえ、本当に痛恨のミスです
「現地の人を理解して、経営するべし」と言い聞かせてきたつもりでしたが、口だけだったと強烈に反省した瞬間でした
学び15:ローカル社員の考えにしっかり耳を傾け、判断すること
下記のようなブログを書いていますが、現実は失敗ばかりです
日本での量産開始
12月半ばから日本で生産が始まりましたが、結局臨時で日本中から集まってもらった作業者の人たちでは、やはり生産が増えていきません
特に、組み立てが非常に難しい部品はかなり難渋していました
急遽無理やり集めた人達ですから、やむを得ないですね
年末に日本に一時帰国して、日本の生産現場を見学しましたが、現場責任者の苦労がよくわかりました
タイから人を送りこまなかったこと、ここでも後悔しました
結局、この難しい部品は、タイで臨時に立ち上げた工場で組み立て送ることにしました
この判断が功を奏し、その後の組み立てがかなり安定して、少しほっとしたのを覚えております
また、この部品を素早く立ち上げ日本に送り込んだタイの従業員たちもすごい奴らでした
まとめ
日本での臨時生産を立ち上げることを通じ、大きな反省をすることになりましたが、最小限の主力商品の供給ができたことは少しだけ安心できました
次はいよいよ、水が引き、工場の普及の始まりです
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