海外赴任先の従業員1000人、販300億円規模の海外連結子会社の工場を閉鎖した経験があります
こんな仕事はできるならしたくない仕事ですが、時代とともに変化する環境のなか、やむを得ない決断をしなければならない時はあります
私の経験経験した閉鎖は私自身が決めたわけではなく、本社の決定に従い現地の責任者として閉鎖の活動を行いました
かなり月日も経ちましたし、これ以上時間がたつとそのことを忘れてしまいそうなので、その経験について書き残そうと、閉鎖作業の中で感じたことを何回かに分けて書きづづってみたいと思います
もし、同じような経験をする立場に立った人の参考になればありがたいですが、そんな経験する人も多くはないでしょうから、私自身の仕事の記録として残します
書こうと思った動機
書こうと思った動機は、上記に書きましたが、「私がしてきた仕事の記録として残すため」というのもありますが、もう一つの理由として
「工場閉鎖の情報が少なく、不正確」
と言う理由があります
閉鎖が決まったとき、「さてどうやって閉めたらいいのやら」というのが本音です
閉鎖を決めた人たちも含めてそんなこと経験した人自分の周りにはいません
でもなんとか情報を集めないと、全くの手探りでは前に進みませんから、ツテをたよって話を聞き、情報を集めようとしました
ただ、「閉鎖のプロ」や「閉鎖を経験した人」みたいな人はいなくて、結局、数少ない事業の一部撤退や、閉鎖した経験の持つ人を探し、話を”記憶”を頼りに聞くだけで終わった感じです
この記憶があいまいで、その背景まで聞くとあまり参考にならない情報が多くモヤモヤが結構残るヒアリングでした(それでも、情報が全くない状態に比べたらかなり救われましたが・・)
しかし、これでは今後同じようなことを誰かがしようとしたとき、同じように困る人がいるかもしれないと思い、閉鎖決定から生産終了、資産の廃棄売却、最後土地建物売却引き継ぎまでの記録を閉鎖業務をしながら残していきました。
我ながら「オレってまめやな~~」って思いました
この記録をベースに正確に書くようにトライします
とはいえ、ブログに書くには具体すぎて、また社外秘だらけなので、どのように書くか迷っている部分はあります。
洪水の時は、事実を時系列に書きながらその時感じたことを書いていきました
あまり読んではもらえていませんが、私個人としての記録にはなった思っています
閉鎖業務は、その意思決定プロセスから、実行に至るまで、事象や人間関係、人それぞれの思惑が複雑すぎて上手く書けるか不安です
それもあって、書くことに躊躇していたのですが、うまく物語のように書く能力はないのだから、時系列は無視して、トピック的に書いてみようと思い書き始めることにしました
取り留めないつぶやき程度にしかならないかもしれませんが、もし興味がありましたら読んでみてください
第1回は閉鎖までの全体の流れと、書こうと思った理由についてです。
工場閉鎖決定から最後までの流れ
私が経験した工場閉鎖の流れです
閉鎖が決定してから土地建物を売却して撤退するまで約1年半かけました
もっと短時間で閉鎖したケースも聞いていますが、ケースバイケースでしょう
逆に当初、本社は代替え生産地の準備のため2年半程度掛けることを提案してきましたが、
「現地として撤退前提で2年以上も工場を運営するのは無理」
と訴え、残り1年の稼働、半年の撤退業務のスケジュールを決定しました
理由は、撤退が決まると工場に投資をしなくなり、投資をしないと従業員は、なぜ???と不審に思い始めます
この環境下で従業員のモチベーションを維持するのは難しい
特にうるさい組合が変なことを言い出す恐れを感じたからです
サクッとした流れとして
10月に撤退決定
その後、従業員へのオープンの準備(限られた人員での活動です)
4月 従業員への連絡
代替え生産地での生産準備のための製品の作り貯め
10月 生産完了 大部分の従業員の退職
残務、設備、棚卸資産の廃棄、売却など
3月 工場完全閉鎖、土地建物売却先へ引き継ぎ
正確には、この後の清算会社として存続し、最終会社としてなくなるには税務関係の処理を終えるのが必要で3~4年程度かかります
(清算業務は監査法人に外注し従業員は誰もいなくなりました)
このような流れで閉鎖し、その都度都度いろんなことが発生しました
なんせ経験ないことですので、試行錯誤を繰り返しながらも意思決定を行い実行しては修正し、なんとか大きなトラブルもなく閉鎖することができました
この都度都度で起こったトピックを中心に今後記事にしていきたいと思います
では、また
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